浪﨑 克則さん
ナミサキ不動産有限会社 代表取締役

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命の大切さ

ガチャンと織れば1万円が儲かると言われ、「ガチャ万時代」を迎えた綿織布業界。生路小学校の校歌に「 街にあふれる工場の 機械の音のにぎわしさ 」と当時の様子が歌われています。

伊勢湾台風の翌年から、親父が毛織物業を始めました。当時の親は仕事を一生懸命やってましたから、よその親が注意してくれたり近所の人が見てくれてたし、生き物は大切だとか、たたくと痛いとか、そういうことは自然に教えてもらいましたね。家を継ぐつもりでしたが、繊維業界の衰退や他国との競争激化となり、継ぐのは断念。将来を真剣に考えていた頃、不動産屋の仕事が面白そうだったので、やることに決めました。

24才になるという頃に結婚しました。結婚したんですけどしばらく子供が授からないので、家内といろいろ頼んだり拝んだり、氏神さんにお百度参りも行き、5年後にようやく息子が生まれました。退院してから数日がたったある日曜日、長男が40度ぐらいの熱が出て。すぐに大きい病院へ行くと、大変な病気に。大手術をしたんです。5年目でせっかくできた子だけど、主治医に呼ばれて残された命がどうとか言われ、隣にあった食堂で2人で泣きました。

それからですね。ああすれば、こうすればよかったと後悔だけはしたくない、徹底的に子供と向き合おう、子供と一緒に育っていこう、と。家内も強かったと思う。産後の血の道が悪くて寝れなかったろうに、気丈だったんです。本当に九死に一生というか、その後退院することができました。子供には『生き物の命の大切さ』を絶対に教えたかったので、自然を相手にあらゆる所へ連れて行ったし、息子が2つか3つの時かな、家内が実家からグローブを持ってきたので、長男とキャッチボールを始めました。

野球と共に

僕が勤めから帰ると必ず毎日です。小学生になってからピンポン球を50個ぐらい買ってきて、家の中でトスバッティング、外では捕球。最初はコロコロだけど、だんだん難しく投げて。取れたらすごいな!パーフェクトだな!とおだてて。それから生路レッズという少年野球チームに入り、僕もスタッフとして手伝い始めました。

僕は球技をやったことないんですよ。剣道、サッカー、ボーイスカウト等、何でもよくて、たまたま家内が実家から持ってきたのがグローブだったので、それを徹底してやった。親が野球を知らないから真剣になるし、子供が伸びたのかもしれない。

長男は毎晩外で素振りをして、芝が取れて庭に穴が開くほどです。日台親善少年野球の交流メンバーに誘ってもらえた関係で、東海チャレンジャーという硬式野球のボーイズリーグに入り、全国大会に出場。小学校の時の文集には「甲子園へ行きたい」と書いてました。

中学に入ってからも練習と試合を重ね、それから享栄高校に入り、2000年の春のセンバツで、甲子園に出場することができました。長男は夢を実現したんです。次男も三男も野球をやったので、土曜日曜は野球漬け。3人とも大学に進んで野球を続けましたから、合わせたら20年も野球をやってます。子供が野球から離れたら生活リズムが狂っちゃいましたよ。

子育てとは

僕が1番感謝してることは、親が教えれないことを監督や先輩が教えてくれたこと。反抗期になると特に母親の言うことなんか聞かないでしょ。面白くないことがあると、家の壁を割るし階段の板も割れましたよ。パワーのある子ですから、野球をやっていなかったらどうなっていたことか。最近では指導者が手を上げると親がとやかく言うけど、こんなありがたいことはない。親の代わりに徹底的な教育で、礼儀作法や言葉も態度も、しっかりします。

1番良かったのは、子供と真剣に向き合ったことじゃないかな。いつこの子が3つや4つで死んじゃうのかわからなかったので、とにかく後悔のないように。子供はいずれ出て行ってしまう。成長と共に離れていく寂しさがありますが、子育てはどんなにやってもやり過ぎってことはないんです。子育ては子と共に自分も成長ですから。