梶田 啓司さん
Petit Restaurant Prendre(プランドル) 
オーナーシェフ

〒470-2101
愛知県知多郡東浦町森岡取手22-1
電話・FAX 0562-85-7790

和から洋へ

小学生の頃から家の冷蔵庫にあるもので作ったりして、なんとなく料理に興味がありました。中学生の頃、テレビで見た寿司職人コンクールの細工寿司が、まるで芸術品のようで。本格的に料理の道へ行きたいと意思が固まったのはこの頃です。寿司屋の人に話を聞いたら、『これからは寿司だけじゃダメだから和食の道へ入りなさい』と言われ、お店を探したところ吉兆を知り、そこへ行くための近道を探したら辻調理師学校でした。高校を卒業してから辻調理師学校の和食専門のコースに入り、1年間で学科や実地などを叩き込まれ、卒業後は吉兆に入ることができました。たまたま新しい店舗が増えて人を募集していたので、運が良かったですね。実質4年半ほど働いて、厳しい世界でしたがいい先輩にも多く出会いました。

高校時代のことですが、野球部でケガをして阿久比町のスポーツ医・科学研究所に入院しました。そこは全国のアスリートが集まり、プロ野球選手やJリーガーも来るようなところ。たまたま偶然石川県の方と知り合い、退院してからも年賀状のやり取りを続けてたんです。その人もアスリートだったんですけど、大学卒業後に会社をおこして、いろんなことを相談できる兄貴のような存在でした。将来お店をやりたいんだと相談をしたら、世間を知ることやいろんな会社を見た方がいいんじゃないか、東京で俺の付き人をやらないか、と言われて。その人はお店も経営していたので、面白そうだと思い東京へ行くことにしました。

東京では大きな会社の社長さんや議員・大臣といった、いろんな方に会うことができたし、言葉遣い1つでも吸収するつもりで勉強をさせてもらいました。その後、石川県にあるお店を貸してあげるから、好きなことをやってみなよと言われて石川県へ。短い期間でしたけどね。それから完全に東京へ移ることになり、飲食部門をやるから店舗をやるようにと言われ、ラーメン店や喫茶店の立ち上げからやりました。ラーメンは有名店へ入り、スープや麺の作り方を勉強させてもらったりして、難しかったけどおかげ様でメディアにも取り上げていただいて、有名店になりました。とにかく休みも無く忙しい日々でしたが、期待に応えたいと思ったし密度が濃かった。

出会いに恵まれ

東京に5年ほどいましたが、もともと目指していたのが職人の世界なので、本格的にやりたいという気持ちが出てきました。社長にその思いを伝えてやめることになり、どうしようかと考えた時、石川県という場所や人が良かったので、お店を調べてフレンチの世界に入りました。そこのオーナーシェフは世界で金賞をとった方で、みっちり仕事をさせてもらったんですが、あまりにも忙しくてやめてしまう人も多くて。客席がトータル80ほど入る店なのに、調理場に2人しかいないなんてことも。年末も休みがありませんでしたが、洋風おせちやオードブルを作ったり、世界をとった人の料理を見ることができましたから、個人店の勉強になりました。

それから友達や知人のつてで、北陸で1番と言われている、ホテル日航金沢のレストランに入ることになりました。その頃の年齢が30を過ぎてたこともあり、基礎はできて当たり前、求められるものが高かった。年下の人間が多かったから見本にならなきゃいけないし、短期間でそのシェフの技術や考えをたたき込まれ、泣きたくなることも多かった。いかに無駄なく効率良く突き詰めていくか。料理は完成形をイメージして時間を逆算し、1番の近道を考えなきゃいけません。そのおかげで今の基礎ができたと思います。

そのレストランでの立場は2番手だったので、毎日の食材をどれだけ買って利益はいくらとか、見ることが自由でした。『ホテルであったとしても自分の店だと思って仕事をしろ』と言われ、原価を見て利益を出す等いろんなことを教わりました。そのホテルで1番最初にお世話になったシェフが、世界コンクールで銀賞になったんです。それだけすごく力のある方なので、僕はいい人に恵まれてるなと思いますね。

僕は東浦が好きだし、生まれ育った町に戻るつもりでした。東浦で飲食店は難しいとも言われてますが、生意気なんですけど自分でやってみたい、変えてみたいと思った。ほどよい田舎感で住みやすく、名古屋に出やすい、交通の便も良い方。いい所がいかされず、もったいない所が多いと思います。
いろんなコラボレーションをやりたいですね。今、お店を1人でやってるので仕込みもいっぱいいっぱい、出したいことがまだ2~3割しか出せていないので全然進めないですが、この店の形をちゃんと作ったら、将来は東浦の中で別ジャンルの店舗を増やしたいし、仕事ができるように人の育成もしたいです。