下澤 春美さん
森永東浦ミルクセンター 店長

〒470-2103
愛知県知多郡東浦町石浜田之助6-62
電話 0562-82-0866
FAX 0562-84-6894

名古屋と東浦

昭和25年戦後の落ち着いた頃、名古屋市北区で生まれ育ちました。
中日新聞のサンデー版に「焼けあとの元気くん」というマンガがありましたよね。ほとんどあの感じで、遊び場には事欠かなかったですよ。いわゆる爆弾池という穴のあいた所に池ができて、魚を取ったりして遊びました。

昭和46年ごろ、県の住宅供給公社が東浦と瀬戸市に戸建ての建売を分譲しました。当時はオイルショックの前で、まだ資材が値上がりする前だから、公的な分譲は手に届きそうでした。とりあえず申し込んで、抽選をした結果、本命の瀬戸市は外れて東浦が当たった。当たったらその時に考えればいいと思ってたけど、東浦なんて全然知らない土地。初めて東浦へ来た時は、夜だったこともあって、とにかく周りが暗く、えらいとこに来ちゃったなと。

抽選に当たって入居したのは昭和47年3月ごろ。当時はアイプラザも無いし、車が無いとなんともならない。買い物はバスの店と、石浜の駅前の坂を上る途中にある雑貨屋さんの2軒ぐらいだから大変でした。仕事場が名古屋の東区なので、車で2時間かけて通勤しました。知多半島道路はもちろん無く、国道23号線のバイパスはできてたのかな、もう大渋滞で。いったんはJR通勤に変えて何ヶ月か通ったけど、もう無理だと思ったので名古屋の市営住宅を借りました。

コンピューター激変

コンピューターを使って事務処理をする代行業の会社に勤務した後、独立させてもらいました。キーパンチャーが紙テープにデータ入力をしていた時代です。三菱のマルチ16というパソコンのソフトや、販売管理プログラムソフトのオーダーやカスタマイズをやってました。そのうちにオフコンからパソコンの時代になり、パソコン1台あれば安い初期投資でいろんなことができるようになった。コンピューターの値段が機械だけで2000万以上していたのが、10年たったら200万に。パソコンになってからもMS_DOSというOSから、ウィンドウズになった。

そこへバブル崩壊の後遺症で、外注委託が内製化になり、仕事が減ってきてしまった。若い人たちが知識や能力をつけて追い越していき、自分の出番は無くなっていくという、ちょうど入れ替えの時期だったと思います。事務所を名古屋の駅前から東浦へ移すことになり、その後、定住を決めました。平成8年のことです。

今までの流れで、請負の形でやる方が安定したかもしれないけど、面白みは感じられないよね。東浦でパソコン指導を2年程やりながら、古いお客さんのメンテナンスをしてました。いい時代もあれば厳しい時代もあるし、続けたいという気持ちがあれば乗り切るしかない。しかしそれだけでは回っていかないので、たまたま森永乳業に勤めていた友人から誘われたのを受けて、コンピューターの仕事を続けながら、森永の販売をやることに決めました。

時代の流れ

宅配は人手も要るし費用もかかるので、半田コロナに自販機を設置して管理することを主にやりました。それが好評だったので、安城コロナと中川コロナにも入れることに。それだけで売り上げの6割程を占めるようになったけど、保証金と証する場所代を払わなきゃいけないし、3年ごとに更新される。やってみて初めてわかることも多く、コンピューターと比べて食品は細かい仕事です。

森永乳業自体も、食生活の変化で牛乳の比率が変わってきてる。時代の流れもあるよね。豆腐やお米、フリーズドライの味噌汁など、いわゆるBルートと呼ばれる商品があるんだけど、ミニコミ誌を作って売り上げを増やそうとしている(Aルートは牛乳)。震災時の非常食もたくさんあるんですよ。でもPR不足だったみたいで、うちのお客さんに届いていなかった。ここを反省して、これからはお客さんにちゃんと向き合った営業をしていきたいと思います。